2008年06月01日

歴史の舞台


 この道路。久米を南東から北西に貫く久米大通り。泉崎交差点から西武門を臨んでいます。
 久米は、琉球王朝時代には中国から移り住んだ人々が住んでいて「くにんだ(久米村)」と呼ばれ、琉球の交易を支えていた地。その久米村は風水の思想に基づいて造られた街だったようです。
 基幹をなすこの道路は、龍の胴体にたとえられていたという。そして、現在の泉崎交差点近くはかつては海岸線で、久米村への入り口。久米大門が建っていた。入り口ということは、龍頭に当たる部分。それにちなんでかつての泉崎ロータリーにはこんな↓小公園が整備されています。








 見事ですねぇ。龍の顔にそっくり。って龍なんか見たことないんだけど ^□^ ;

 大正時代から昭和初期までは、沖縄電気鉄道が敷設され、写真の龍の公園付近には、大門駅があったそうです。
 戦前はこの近くに市役所やデパートなどがあって、那覇の中心地であったところ。久米の歴史は「那覇(なーふぁ)」の歴史といってもいいかもしれません。
 そんなかつての賑わい、栄光の歴史をしのばせるような史跡などは戦争で破壊されたのでしょう、ほとんど残っていませんが、久米界隈を走るたびに、かつてこの舞台で演じられた幾多のドラマ(脚本・Turbo。ニャハハ)が脳裏に思い浮かぶのである。

 そんな舞台をベロタクシーで一緒に堪能してみませんか? 那覇市街角ガイドでもあるTurboがご案内いたしますよ。
って、紹介するほどベロに乗っているわけでもないんだけど。。。  

Posted by Turbo at 09:37Comments(0)TrackBack(0)歴史・史跡

2007年12月06日

コーヒーシャープ

 普天間にあるコーヒーシャープ。以前から気になっていたが、開いている時間にかちあったことがなく、入る機会を探っていたのだが、先ごろやっと入る機会に恵まれた。


 入ってから、アイスコーヒーを注文すると、おかあさんが申し訳なさそうに、「インスタントだけど、いいねぇ?」
ちょっとびっくりガ-ンしたが、「いいですよ」

「ここコーヒー屋さんじゃないんですか?」
「食堂です」
「あ、食堂だったんですか。びっくり!じゃあ、おそばもください」


ということで、そば+コーヒーをオーダーしました。ちなみにおそばは400円、コーヒーは150円でした。

 おかあさんに断って写真を撮っていると、

「あんた何ねぇ。新聞屋ねぇ」
「いや、昔のあのコーヒーが飲みたくてね」
「雑誌なんかの取材がよく来るけど、しょっちゅう同じことばっかり聞くもんだからもう断っているさぁ」
「そりゃそうですよ。コーヒーシャープなんだもん。コーヒーシャープって店は、沖縄でももうここだけじゃないですか?」
「糸満と嘉間良(コザ)にもあるっていう話みたいだよぉ」
びっくり!ええーっ、糸満とコザにもあるんだぁ。よーし、今度探して行ってみよう」

 貴重な情報をありがとうございました。今度はまだ見ぬ糸満とコザのコーヒーシャープ探しを始めよう。どなたかコーヒーシャープの情報をご存じの方、ご提供ください。

 そうこうしているうちに、アイスコーヒーが。。。

 おー、まさしくこのコーヒーであるピース 決しておいしいとは言えない二昔以上も前の食堂の鼻血が出そうなくらい甘い茶色のコーヒーだ。おまけに氷も白くにごった自家製氷の氷だ。これで150円。でーだかぁ(笑)。だけど、最近、こんなコーヒーに出会わないからうれしいなぁ。ニコニコ懐かしいなぁ。

 ここのコーヒーは鼻血が出そうなほど甘くはありませんでしたが、沖縄に来たころ食堂で飲んだあの懐かしい青春の味でした。
 でも、このコーヒーじゃぁ、客は来ないぐすんだろうなぁ。


 ちなみにここのおかあさん。首里の石嶺から毎日通ってくるのだそうです。借り店舗で、経営的には赤字なんだそうですが、常連さんがいるから続けているというお話しをしてくださいました。
 料金払おうとしたら、
  「コーヒーはサービスするさぁ」
といってくれたのですが、何だか悪い気がしたので、50円だけサービスしてもらいました。

 文化財に近い「コーヒーシャープ」の看板をいつまでも守り続けてほしいと願いつつ、店を後にしたTurboでした。

 おかあさん、ごちそうさまでした。また来るさぁね。

  

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2007年11月24日

強者どもが夢の跡

 壺屋の観光スポット、南ヌ窯の脇に立つガジュマル。戦世をも凌ぎ、壺屋のたたずまいを今に伝えている。壺屋の歴史を感じさせる立派なガジュマルだ。
 そのガジュマルの気根には、かつて登り窯で数日間かけてやちむんを焼いた陶工たちが、仕事の手を休めたときに、気根を編み込んだものであろう、三つ編に編まれた痕跡が残っている。気に入らない作品はたたき割ったのだろうか、ガジュマルの根には多くの焼き物の破片もうず高く積まれている。


 那覇の復興の一翼を担った陶工たちの夢の跡といったところである。
 その気根も今では立派な根となってガジュマルを支えているのだが、しばしたたずんでいると、時の移ろいとともに、かつての強者たちの那覇の復興にかける情熱とやちむんに対する思いがふっと頭をよぎっていくのである。

 壺屋観光の隠れた文化財である。






近くの琉歌には、このガジュマルが次のように詠まれている。

  

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2007年10月29日

古井戸

 壺屋焼物博物館わきの駐車場の真ん中にポツンとコンクリートでふたをされた古井戸。








ただの古井戸だと思いきや、この井戸は、琉球王朝時代からの由緒ある井戸だそうである。その名は「番所ガー」。

 中をのぞくと、ごらんのとおり、石垣で囲われた立派な井戸だ。深さは結構深い。10メートル程度はありそうだ。
  壷屋が焼き物の里として歴史に登場するのは、1682年。王府が各地に点在していた焼き物の窯をこの地に統合したのが壷屋の焼き物の始まりである。

 王朝時代には、この地には「番所」があったという。番所脇にある井戸だから「番所ガー」というわけだ。琉球王朝時代には、お役人だけでなく壺屋の人々も飲料用に使っていたという。

 数年前までは、ホテルの一角にポンプが残されていて、祈願成就の神様として本島各地から多くの人々が訪れる拝所だったらしいが、そのホテルも取り壊され、今では拝む者もなくさびしく写真の状態で存在している。

 歴史の証人であり、文化財としての価値もあるのではないかと思うのだが、それにしては、ずいぶんな仕打ちではないかと思う。壺屋の案内はこの地から始めるのだが、観光施設としても非常にもったいないと思うのである。
 この地には、将来的に「壷屋陶芸センター」が建設されるそうである。その暁には、またきっと拝所としてきちんと整備されて、祈願成就の神様として多くの人々が訪れるものであろう。それを期待している。

  

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2007年09月22日

歴史の道・十貫瀬通り

 ここは、崇元寺橋から旧ダイエー那覇店前に抜ける「十貫瀬通り」という通りである。

 二十数年前ごろまでは、両側に飲み屋さんが立ち並ぶ飲み屋街であった。今では、ご覧の通りさびれた何の変哲もない街中の通りであるが、その昔、この道は、那覇と首里をつなぐ幹線道路であった。












 琉球王朝時代、那覇は「浮島」と呼ばれる離島であった。中国皇帝の使者である冊封使来琉の時などは、浮島に到着した一行は、この浮島から、安里まで小舟を並べた橋を渡って首里へ向かっていたという。
 そこで、1451年、時の国王・尚金福は、国相・懐機に命じて、浮島と崇元寺を結ぶ道を築造させた。(上図、点線の部分) 後に、長虹堤と呼ばれる道路である。ちょうど今のうるま市与那城と平安座島を結ぶ海中道路様の道路であったらしい。
 この工事は、海が深く波が高いので、相当な難工事が予想されたことから、懐機は神のご加護を得るために、祭壇を設けて二夜三昼祈願したという。
 事実、この道路の影響で、沖合(現在の前島)にはカタバル(干潟)が出現し、その後の製塩業の発展につながっていくことになるのだが、地形を変えるほどの影響を及ぼしたという事実からも、かなり大掛かりな工事であったことがうかがわれる。

 上の写真は戦前の長虹堤跡の写真である(美栄橋の案内板から)。盛土された様子がうかがわれる。

 とにかく、それ以後、1934年、現在の国際通りとなる「新県道」が開通し、その地位を譲るまで、那覇と首里を結ぶ主要道として利用されたという。

 今となっては、当時をうかがい知ることはできないが、一部、古墓が作り出す小さな森と岩崖が、かすかに当時を想起させてくれる。








 そんな歴史の舞台に立って、その昔、この道路を通ったであろう冊封使一行や琉球国王の思いに考えをめぐらせながら、五百数十年の時を経て当時と同じ青空の下で、のんびりとベロをこいでいる。幸せを感じながら。。。ピース
  

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2007年09月12日

ベロの北限にて「那覇」の由来を想ふ

 ベロタクシーには、一応営業エリア、というか、運行可能エリアがある。
 法律的には自転車である。従って、どこを走っても自由であるから、この運行可能エリアというのは、自主規制だと考えてもらえればいいかな、と思う。

 その運行可能エリアの北限が、"泊いゆまち"である。ここまで北上したら、原則としてUターンしなければならない。これから北に進むことができるのは、年に一度、那覇ハーリーの祭りの3日間だけである。

 その泊いゆまちは、皆さんすでにご案内の通りの魚市場である。この日(先の土曜日)も多くの買い物客でにぎわっていた。多くの種類の、色とりどりの魚が並んでいた。









 これらの魚を見ながら、沖縄の海は命を育む宝場だとつくづく思うのである。最近は、命を育むといっても「漁場(食)」よりも「レジャー」に比重が移っているが、それでもやっぱり海は沖縄人の宝である。沖縄人は昔も今も海で食べているのである。

 ところで、那覇の語源は、「ナバ」だといわれている。「ナバ」が訛って「ナーファ」「ナハ」になったとされている。「ナバ」の由来は諸説あるが、その中に「漁場(ナバ)」という説がある。伊波普猷が唱えたらしい(勉強不足で確たることが言えないのだが。。。)。
 その昔、那覇は浮島と呼ばれ、いくつもの島が点在したらしい。入り組んだ地形と、沖合いに発達したリーフが好漁場を形成したとしてもおかしくはない。泊いゆまちの数多くの種類の魚を見ていると、なるほど豊かな漁場だったに違いないと思うのである。

 それにしても、いゆまちのお魚の値段の安さはどうだろう。新鮮、かつ、安いとなればこれは出かけない手はないと思う。
 あ、お出かけの際は、ベロタクシーをご利用くださいませ。ピース

  

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2007年09月10日

誰か教えて 泊外人墓地の奇?

 ベロでの小さな発見の一つです。
 先週の土曜日8日の泊の外人墓地です。
 泊いゆまちまでベロのコース散歩(走)の途中で立ち寄ったのですが、なぜか各お墓に星条旗が1本ずつ立てられていました。何故? 旧盆だから? クリスチャンですよね。まさかですよね。キリスト教の儀礼か何かがあったのでしょうか。それとも、米軍のボランティアが単にお墓の掃除をしただけなんでしょうか。
 理由が分かる方がいらっしゃったら教えてくださいませ。

 1853年5月、あの黒船のペリー提督もこの地に上陸したのですが、150年以上の時を経て、歴史の舞台に立てるというのは幸せですね。当時、ペリー提督はこの琉球を見て何を思ったのか。はるか悠久の歴史に思いを馳せてみるのもまた楽しいものです。  
タグ :外人墓地

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