2007年09月22日
ゆく川の流れは絶えずして・・・
特に、3時すぎからの国際通り西向け(県庁方面向け)運行は、西日をもろに受けて、げんなりしてしまいました。
でも、吹き抜ける風は8月までとは全く違う風です。確かに秋の風です。
ゆく川の流れは絶えずして しかももとの水にあらず よどみに浮かぶうたかたは かつ消え かつ結びて 久しくとどまりたる例なし
ふと、思い出してしまいました。やっぱ名文だよなぁ。
暑さ寒さも彼岸まで
もう少しすると、ドライバーにとっても、いい季節になってきます。
久しぶりに今日は、お客さんのいない一日でした。

でも、いろいろ発見しましたよ。そして、たくさんの出会いが今日もありました。だから、今日も
2007年09月22日
歴史の道・十貫瀬通り
二十数年前ごろまでは、両側に飲み屋さんが立ち並ぶ飲み屋街であった。今では、ご覧の通りさびれた何の変哲もない街中の通りであるが、その昔、この道は、那覇と首里をつなぐ幹線道路であった。

琉球王朝時代、那覇は「浮島」と呼ばれる離島であった。中国皇帝の使者である冊封使来琉の時などは、浮島に到着した一行は、この浮島から、安里まで小舟を並べた橋を渡って首里へ向かっていたという。
そこで、1451年、時の国王・尚金福は、国相・懐機に命じて、浮島と崇元寺を結ぶ道を築造させた。(上図、点線の部分) 後に、長虹堤と呼ばれる道路である。ちょうど今のうるま市与那城と平安座島を結ぶ海中道路様の道路であったらしい。
この工事は、海が深く波が高いので、相当な難工事が予想されたことから、懐機は神のご加護を得るために、祭壇を設けて二夜三昼祈願したという。
事実、この道路の影響で、沖合(現在の前島)にはカタバル(干潟)が出現し、その後の製塩業の発展につながっていくことになるのだが、地形を変えるほどの影響を及ぼしたという事実からも、かなり大掛かりな工事であったことがうかがわれる。

上の写真は戦前の長虹堤跡の写真である(美栄橋の案内板から)。盛土された様子がうかがわれる。
とにかく、それ以後、1934年、現在の国際通りとなる「新県道」が開通し、その地位を譲るまで、那覇と首里を結ぶ主要道として利用されたという。
今となっては、当時をうかがい知ることはできないが、一部、古墓が作り出す小さな森と岩崖が、かすかに当時を想起させてくれる。
そんな歴史の舞台に立って、その昔、この道路を通ったであろう冊封使一行や琉球国王の思いに考えをめぐらせながら、五百数十年の時を経て当時と同じ青空の下で、のんびりとベロをこいでいる。幸せを感じながら。。。


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